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【3月6日】
その週の土曜日、娘が、今度は設計事務所をやっている友人を連れてきた。娘の中学時代の同級生らしい。「お父ちゃん、『建築家』やでぇ」と紹介した。
名刺には、一級建築士と書いてある。老人は、不動産屋が連れてきた二級建築士とは、だいぶ違うとは感じていた。
娘は建築家に多少は事情を話していたが、娘自身、B社の一件については断片的にしか了解していなかった。「お父ちゃん、既に契約してもてんねんてぇ」「契約って、なんの契約?」建築家の問いかけに、老人は契約書を見せた。頭に『工事請負契約書』とある。建築家は驚いた。てっきり『設計契約』だろうとタカをくくっていたのだ。見積明細は無い。約款も無い。図面は添付されて居らず別綴じ。金額だけは書かれてあるが、工事予定などは空欄のままである。
「なぜ、こんなに急いで契約をなさったんですか?」「設計内容は合意しているんですか?」「工事はいつから取り掛かる手筈なんですか?」「融資の話はどこまで進んでいるんですか?」「いったいいくら支払ったんですか?」「内容証明でキャンセルしたと聞いていますが、その後、先方からの連絡はあったんですか?」建築家はポンポンと質問した。
工事請負契約の日付は、1月19日。「お父ちゃん、お正月に集まったときは、なんにも言うてへんかったよねぇ。」「そらぁそぅや。B社が来たんは、正月過ぎてからや。」
建築家は、「ちょっと待ってください。お正月過ぎてから初めて来て、その月の19日に工事契約したんですか? 二週間も経ってないんですよ」と確認したが、どうやら間違い無さそうである。
工事請負契約書の支払予定に、『実施設計完了時(1月19日)2500万円』の記載がある。設計図面を見た。500坪以上もある敷地の中央付近に、何の変哲も無い短冊形の住戸が一列並んでいる。4階までがワンルームマンションで、最上階である5階の半分以上がオーナー住戸、残りはルーフバルコニーである。
図面には、構造図が含まれていた。柱・梁リストもある。杭も指定されている。当初は、なんとすばやい設計だろうと感心した。が、もう一度契約書を見ると、特約条項に杭の事が書かれている。「地質調査の結果に因り、精算する」と。「まだ地盤調査をしていないんですね」と聴くと「役所へ行って調べてな、杭は30m要ると言うとりましたで」と老人が答えた。いくら現住家屋があるといえ、500坪の敷地の殆どは庭と空地である。なぜボーリング調査をしないのだろうかと不思議に思ったが、地盤調査を経て構造設計をしていたら、とてもこんなスケジュールで実施設計できるはずが無いと・・・ハッと思い当たった。
「!・・・そうなんだ・・・ この構造図は・・・この建物の為に設計された図面ではなく、どこか他の建物の図面の、工事名称だけを修正してあるだけなんだ!」
ぞっとした。
一応、数十枚の図面が綴じられている。素人眼には、充分立派な設計図書に見える。そして、老人は、契約どおり2500万円を支払っていた。
恐る恐る聴いてみた。「何故ワンルームマンションを建てようと思われたんですか?」「B社がこれしか持ってきてまへんがな」「ワンルームって、若者が住むんですよ。学生さんかもしれない。その最上階にお住まいになって、大丈夫ですか?」
妻が、我が意を得たりと話し始めた。「私は嫌やと言うてたのよ。マンションなんかよう住まん。この歳になるまで、マンションに住んだ事無いし、学生さんと一緒になんか、よう住まんのに・・・」
「工事費の全額を住宅金融公庫の融資でまかなわれるんですか?」「いぃや、全額は出ぇへんと言うとりました。5億のうちの4億は公庫が出してくれるが、1億は別やと言うとりました。」「銀行は何処に申し込んだのですか?」「まだ、何処とも話してまへん」「これだけの資産がおありですから、やり様によっては、工事費の99%でも公庫が融資してくれますよ。」「せやけどB社は4億出てくるのんでも、B社やからであって、普通は出ぇへんと言うとりましたがなぁ」
娘が付け加えた。「1億の融資も、銀行と違うてB社の系列会社って言うてなかった?」
「融資の手続は何処まで進んでいるんですか?」「そんなん、具体的にはどこまで行っとるかわかりまへんわ。書類は全部渡してまっさかい。」「実印を押しましたか?」「押しました。」「何枚の書類に実印押しました?」「・・・わからんなぁ、仰山押しましたけどな」
「委任状は書きましたか?」「書いたと思うが・・・」「何通書きました?」「・・・わかりまへん。なんせ仰山書類書きましたよってに・・・」
建築家は話題を変えた。「お父さん。雑駁な話ではありますが、この設計内容で5億近い工事費という事は、坪単価に直したら90万円以上ですよ。」「そないなりまっかぁ!」
「以前、この図面内容であれば3億位ではないかという話が逢ったそうですが、私もそぅ思いますよ。勿論、最上階の仕様に依りますが、殆どの範囲を占める賃貸部分がこの内容なら、いくら高くついても3億5千までで納まるでしょう。」「ほぅでっか・・・」
建築家は、老人がどれだけの書類を発行しているかが心配だった。書類が整っていれば、手続は一人歩きしてしまう。
娘は兄に連絡を取った。融資の手続を何処まで行なったのか、金融公庫以外に何処に手続きしたのか、どのような書類を作成したのか、委任状は発行したのか、等など。しかし兄は、殆ど答えられなかった。「金融公庫へ行ったんは確かや」「保証機関へも行ったんちゃうん?」「保証機関って何や?」「土地改良公社って云うトコらいしいねんけど」「名刺ももぅてないしな。わからへんけど、公庫の近所のビルへ連れて行かれた、あそこがそれやろか?」・・・「ワシは開業医やぞ。診療以外の、そんな難しい事はわからん!」
遣り取りを聴き、老人は、ようやく意を決して言った。「実はなぁ、この前の内容証明な、ちょっと待てちゅうてあるんや。」「お父ちゃん、どういう事?」「せやからな、待てて言うたんや。B社は待っとる。」「折角内容証明出したのに、なんにもなってぇへんやん!」
建築家は、弁護士に相談するよう勧めた。老人は、「内容証明くらいやったら、ワシが書いて、もぅ一辺出します。」と言った。「お父さん、B社は大会社です。顧問弁護士を沢山抱えているでしょう。向うは用意周到ですよ。」「キャンセル位やったら、ワシでもできまっせ」「金融機関の手続を中断しなければならないのですから、念のために弁護士を入れはったほうがいいですよ。」「弁護士みたいなもん、高ぅつきまっせ。ちょっと相談しただけでも10万20万取りよりまっさかいになぁ」「お父ちゃん、2500万も払うた人が何言うてんのん!」「あの金は返ってけぇへん! もぅえぇがな」「ほんなら返って来たら私に頂戴!」「あほぬかせ!」
なんとも太平楽な親子だと、建築家は可笑しくなった。これだけ痛手を被っているのに、ちっとも暗くならない。親子が笑顔で話している。
兎に角、リーズナブルな金額で相談に応じてくれる弁護士を紹介するからと、その夜の話し合いを終えた。
(続く)
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